会報や当ホームページに掲載した記事の中からおもなものを抜粋して掲載しています。

キューバ・グループ現地訪問レポート (「TOURISM」2006年夏号)
「観光が21世紀の真の豊かさを育てる」JTWO創立25周年記念座談会 (「TOURISM」1999年冬号)
「旅行作家が選んだ20世紀の名列車」(当ホームページより)

●会報「TOURISM」2006年夏号より
JTWOキューバ・グループ 現地訪問レポート



 2003年に発足したキューバ・グループは、初代世話人の故・村井肇氏の遺志を受け継いで活動を続けてきましたが、4年目にして初めて現地訪問旅行を実施することができました。
 在日キューバ大使館および観光公社クバナカンに全面的にご協力いただき、5月8日から16日まで、石川秀弘団長ほか10名が渡航、首都ハバナで開催中の観光フェアに参加するとともに、世界遺産のハバナ旧市街をはじめ、同国一のリゾート地バラデロや、エコロジーの町として世界が注目するラス・テラサスなどを回りました。
 なお、同国に対する感謝の意を込めて、昨年のハリケーン被害の見舞金を、日本大使館を通じて同国外務省へ手渡しました。
 帰国後、メンバー数名がオルランド・エルナンデス大使を訪ね、旅行の報告をするとともに、今後も同様の訪問旅行を実施し、日キ両国の友好親善のために力を尽くすことを確認しあいました。以下は参加者の訪問レポートです。

 温かな空気に包まれて  石川秀弘
 ホセ・マルティ国際空港に降り立つと、南国の温かな空気が体を包み込み、キューバに来たなと感ずる。毎度のことだが、私はこの瞬間が好きである。
 空港からは車で30分ほどかけてハバナ市街に向かう。最近は白タクをほとんど見かけない。今はほぼメーター付きの正しいタクシーが走っている。白タクと交渉するのもキューバでの楽しみのひとつだったのだが。
 今回の旅行作家協会のスケジュールに、ラス・テラサス訪問を加えてもらった。文字通りテラス状の山肌に広がる人口1000人弱の町なのだが、かつてはフランス人経営のコーヒー園があった所である。コーヒーが売れなくなると木の伐採が始まり、山は荒れ放題となった。革命後の緑地回復運動の中で、元観光大臣のオズマニー・シエンフエゴス氏を中心にテラスを造成し植林、人工池、有機農法などに取り組み、現在エコロジーの町としてよみがえっている。このロサリオ山地一帯には、国鳥であるトコロロをはじめとして多くの野生生物が棲息しているそうだ。われわれが観察できたのはトコロロと放し飼いのクジャクなどでし かなかったのが残念である。せめて1週間ぐらいは滞在したい所である。ヨーロッパ人に人気の観光地となっているここに、宿はホテル・モカが1軒のみであり、300人も泊まれば満室で
ラス・テラサスの自然をバックに記念撮影
あろう。ホテルのすぐ下、一般の集合住宅の一室にマリアコーヒーがあり、10人も入ればいっぱいになる部屋で、65歳になるマリアさんが有機コーヒーを飲ませてくれる。お土産のコーヒーは人気であった。
 コロンブスが世界でいちばん美しいといったカリビアンブルーの海、世界遺産オールドハバナ(ハバナ・ビエハとセントラル・ハバナ)の散策、情熱のキューバミュージックとダンス、文豪ヘミングウェイの痕跡、そしてなによりも陽気でたくましく生きるキューバの人々との出会い。今回の訪問を終わって、さらにキューバを知りたいと思った人は、私だけではないだろう。
 元気をくれるキューバの旅  杉田房子
「あれほどの大病をして生き残った人が、遠いキューバへ行ったんだって。心配したゼ」と、5月末の総会に出席したとき、古い仲間から声をかけられた。夜の外出をせず例会も欠席続きでは、そう心配されるのも無理もない。たしかに病院とのエンも切れず、担当の教授に相談したら「旅に出ると元気になる人だから用心の薬を持って行き、おかしくなったらすぐ帰国!」と背中を押された。
 出発前の心配もキューバに着いたら、サラリと消えた。長い間海外取材を続けていた私の習慣は体に染みついているらしく、旅に出ると昔の元気が舞い戻ってくる。爽やかな風に吹かれ、グループの人たちと毎日元気よく取材を続け、初めて訪れたキューバの魅力を日々満喫。
 大病の後もゆっくりしたスケジュールで年に1回は海外取材を続けていたが、もちろん東南アジアの国々といった比較的近いところを選んでいた。今回のキューバの旅は長年待っていたチャンス。一人旅ではなく10人ものお仲間とご一緒もうれしかった。
 南米の国々を2度も訪れていると、ペルーのリマやアルゼンチンのブエノスアイレスなどの都市で見るスペイン風の立派な建
植民地時代の面影が残るオールドハバナの裏通り
物に、かつてのスペインの栄光しのんだが、その時の感動がハバナの旧市街のあちこちで見られ、キューバの「コロンブスからカストロ」までの歴史を目の前に感じた。これぞ世界遺産、大切に守り続けてほしい。その一方で、ハバナの西に位置する海岸近くに建ち並ぶリゾートホテルの数々。こんな立派なリゾートホテルが、ハバナやバラデロに続々と建築されている様子に驚いた。カナダの友人らが「冬はキューバで楽しむ」といっていた意味が判った。トロントから約3時間のフライトで、この暖かい美しいリゾート地と楽しい音楽と美酒ラムがあるのだから。
 生きている幸を日々感謝しているが、キューバの旅はその幸をさらに深く与えてくれた。

 世界遺産の街を歩きながら  高木美千子
 先人の足跡をたどり、遠い声に耳傾けながら、世界遺産の旅を続けている。奈良、京都、そして熊野…。昂じて、地球の裏側、中南米の遺跡へ続けて飛んだ。ペルーはアンデス山脈にインカの道を歩き、メキシコは古代都市テオティワカン、ウシュマル、チチェン・イツァなど。その折、ユカタン半島でカリブ海を臨み、目の前の島々に思いを馳せた。カリビアンにヘミングウェイの世界が広がっている。この時、次はキューバと心に決めた。折からJTWOのこの企画にお誘いいただいて飛びついた。2月が5月になったが、胸ときめかせての旅立ちとなった。
 キューバの首都ハバナ、その旧市街は要塞とともに街ぐるみの世界遺産だ。ハバナ湾に面した旧市街と、東に広がる新市街を結ぶ海岸線のマレコン通りを往来した。ハリケーン、カトリーナがこの通りに大きな被害をもたらしてやがて1年になる。老朽化した建造物の修復作業が続く。街の中心アルマス広場からいくつもの通りが広がっている。スペインのイベリア様式にのっとって、碁盤の目状に道が敷かれているのでわかりやすいが、石畳の道も工事の真っ只中である。
旧市街のライブハウスは昼間からどこも満員
 ヘミングウェイゆかりのオビスポ通りを歩けば、作品に登場するセリフが聞こえてきそう。
「砂糖抜きのフローズンダイキリ。ダブルで……」
 どの店も満席の賑わいだった。
 サルサのリズムと、洗濯物が頭上遥かにはためくこの陽気な街が、世界遺産に登録されたのは1982年、日本より10年以上も早く「世界遺産条約」に加盟した。独自の路線を歩むこの国の観光への熱意なのか、文化遺産保護への愛着か。
 ここに多くを記すスペースはないが、ともあれ、JTWO各グループの旅に参加するごとにメンバーの方々との交流が深まっていくのが嬉しい。あらためて旅で得るものの大きさを思う。
 オールドカーの宝庫  石川和伴
 ハバナのダウンタウンで、最初はずいぶん奇妙に見えた。米国製のかなり古い自動車が飾っているのではなく、あちこち走っている。タクシーやピックアップもある。
 米国は1961年のキューバ革命で経済封鎖し、国交断絶して45年になる。米国のキューバ嫌いはケネディ大統領以来の伝統だが、キューバとて常に刺客を送り込まれている国家としては米国を好きではない。
 なのに、アメ車はナンバーを付けて石畳の上を堂々と快走している。スペインの遺跡を大切に保存している古い街並みによく似合う。パパ・ヘミングウェイもハバナの街路をドライブしていたのだろうか。
 政府はいまのところバス、トラック、商用車、小型乗用車のほかは新車の輸入を認めていない。まだまだ、国力は豊かではない。
1928年製のフォード。立派に動く
ほとんどはヨーロッパなどから中古車を移入している。ドイツ、フランス車の中小型車に混じって大型のアメ車がいる。私たち視察団にクバナカン公社が用意してくれた観光バスの車窓から、1度だけ古いクラウンとセドリックの日本車を見たときはなぜか感激した。
 車への憧れはどこへ行っても強い。私はマイカーを定年と同時に卒業した。別荘を持つ友人たちが素晴らしい車に乗せてくれる。取材旅行はもっぱらレンタカーにしている。いろいろな車を借りることができて楽しい。
 でも、多様性という点ではキューバにかなわない。観光祭典の会場に行ったとき、1928年製のフォードが、さりげなく駐車していた。人間なら80歳になんなんとする立派な現役である。
 帝国の古き遺産でも大事にする国民性を垣間見た。

 JTWOキューバを訪問する  野口正二郎
 成田空港よりエアーカナダ(AC)でカナダ・トロントまで12時間30分、空港ホテルに1泊。翌日午前にACにて南下、3時間30分でキューバの首都ハバナに到着する。メキシコ乗り換えもあるが、このコースが一番良いと思う。カナダの出入国も簡単で、キューバへ出国の際も荷物検査のみ。帰路もトロントに1泊となるが、体調調整には良い。
 キューバの通貨はペソだが、兌換ペソと普通のペソがあり、10倍の違いを短い滞在にて実感できず。外貨はカナダドル、ユーロが良く、両替所(CADECA)やホテルで替えられるが、場所によってレートが違い、どれが得なのか未確認となってしまった。国交のない米国ドルは10%の手数料がかかり、日本円は替えられる所が非常に少な
ヘミングウェイが通ったレストラン&バー、ボデギータの壁には、訪問者の写真やサインが貼られている。
い。カナダや欧州の旅行客が多く、日本の旅行者はまだマイナーということである。
 ホテルは、スペイン系高級ホテルのメリア・ハバナとメリア・バラデロに宿泊したが、どちらもリゾートタイプで、朝食も夕食も品数豊富なビュッフェであった。ホテルの夕食にアルコールが付いて、嬉しいことである。
 世界遺産のハバナ旧市街のホテルに泊まれば、歩いて博物館や、ヘミングウェイゆかりの場所に行けるので良い。メリア・ハバナホテルでも旧市街までタクシーで10分、10ペソ(1300円)だから、さほど不便ではない。スペイン風の建物、アメリカのクラシックカーが走り、親日的な人々との出会い、旧市街の散策は楽しいものである。
 ハバナから車で2時間、ビーチリゾート・バラデロは、いくつもの高級ホテルがヒカコス半島のビーチにあり、社会主義国であることを忘れさせる。
 最後に訪問したエコツーリズム・コミュニテイ農園、ラス・テラサスは、キューバの別の一面を見ることができて、良い体験であった。
 アジアの資本主義国の日本と温暖なカリブ海の社会主義国のキューバは、対照的なところが多く、好奇心の強い日本人旅行者には面白い国である。
 キューバの思い出  小張アキコ
 初めてのキューバ旅行ですが、私は5月17日からのカンヌ国際映画祭オープニング生放送出演があったため、パリからハバナまで直行便のあるエールフランスを利用しました。ハバナの旅行博でも感じたのですが、ヨーロッパからの直行便が多いので、最近、盛り返している大学生の卒業旅行などに、ぜひヨーロッパ&キューバの欲張りツアーを企画しては! と思いました。私はマイレージを利用して、東京からパリまでの往復の8万マイルで、ハバナまで行けて、ゴールドカードでアップグレードのおまけ付き。キューバはマイレージを利用して行くと、とてもお得感がするリゾート地なので、その点をPRするべきです。
 私にとってキューバといえば、パリ・シャンゼリゼ劇場で見た国立バレエ団の「白鳥の湖」と、黒木和雄監督の「キューバの恋人」のサンチャゴ・デ・クーバでした。しかしバレエ団はブラジル公演中でアリシア・アロンソとの再会はかなわず、サンチャゴ・デ・クーバはコースに組み込まれていませんでした。
 1泊で出かけた人気のリゾート地バラデロまではハバナから東へ。有志で半日、クルーザーを借り切り、小島まで
中南米最大といわれるキャバレー「トロピカーナ」のショウ
出かけました。シュノーケルをつけて潜ったのは、都会育ちで運動神経ゼロの私には初めての経験でした。サンゴ礁の上に立つこともできました。それにしてもカリブの海は、地中海に比べてとても塩辛かったです。
 現在公開中の「ミュージック・クバーナ」や「ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ」に出演したピオ・レイバや、日系人墓碑のあるコロン墓地を訪ねた帰り、タクシーがつかまらず1里半の道を2時間近くかけてホテルまで歩きました。その途中、市民で賑わうスタンドで、0.05ペソ払って飲んだ飲み物の味が、私にとって普段着のキューバの味です。旧市街の映画館で見たのはハリウッド映画でした。次回はキューバの人たちと日本映画を見て、アリシア・アロンソと再会したいです。
 すてきで陽気なキューバ人  小久保晴行
 キューバ人は陽気だ。町を歩いていると「ハポン! ハポン!」と笑いながら声をかけてくる。サルサもマンボもルンバも彼らが生み出した民族音楽である。アフリカの音楽のフィーリングをまっすぐに受け継いで、洗練されたのがキューバ音楽である。ポピュラー音楽はアフリカとヨーロッパ音楽の融合であって、アフリカの魂が込められているからこそ若者たちを惹きつける。
 キューバ人は貧しい。しかし非常に魅力のある国民性をもっている。
 資源のない蒸し暑い沖縄と似ているあの小さな島が、50年間も超大国アメリカにひねり潰されずに生きてこられたのは、不思議であると思った。
 フロリダ半島から170キロしか離れていないキューバを、米国が占領するのはいとも簡単なことのように思うが、それができないのが国際政治のバランスというものらしい。
 ハバナの町を見ても、カストロ議長の肖像画や看板はひとつもないし、政治スローガンも個人崇拝もなかった。じつはその直前に、私は北朝鮮を訪問したばかりだったから、どうしても比較してしまった。飛行港は比較にならないほど、ホセ・マルティ空
キューバ人はみな明るく、とても親日的
港のほうが賑やかであった。高速道路もキューバのほうが基盤整備がなされていた。しかしキューバは厳重な警察国家で監視が厳しい。
 外国人観光客への売りものは「チェ・ゲバラ」と「ヘミングウェイ」と「トロピカーナ」と「バラデロ海岸」だが、もうひと工夫が必要だ。
 意地を張って表面的にはドルを拒否しているが、まったく意味がない。経済開放とドル導入は当然だし、キューバが社会主義の枠の中での経済開放政策とドル導入政策をとって、西側経済圏に入ることは時代の必然性だと私は感じた。
「カリブのモンテカルロ」になるのがキューバ経済再建の早道だと分かっていても、カストロの権威が邪魔しているのだとみた。カストロ議長も78歳だと聞いたから、すべては時間が解決することだろう。
 「老人と海」(私の事と違いまっせ!)  池内嘉正
 へミングウェイが愛した海と釣りを体験するため、ボートをチャーター。早朝のタクシーに乗り込み「マリーナ・へミングウェイ」へと出発。曇りがちな空はにわかに黒くなり大粒の雨がフロントガラスを叩きつけた。5月に入って初めての雨は豪雨となり視界をさえぎり、おまけに風まで強くなりだした。
 マリーナへの入口では厳重な検査の後、通行許可を許され桟橋へ到着。何しろ釣りをするのにパスポートを携帯しなければならない。亡命の可能性のあるキューバ人は船に乗ることも難しいからだ。予想通り出航は中止。ますます激しく降る雨に後ろ髪を引かれる思いで、港を後にホテルへ逆戻り。ドシャ降りの雨ではどうすることもできない。カジキマグロの夢でも見て昼寝をむさぼることにした。
 ハバナのレストランの中で、どうしても行っておきたい店がある。旨いパエリアを食べさせてくれる「ラ・パエリア」。雨も少し小降りになってきたが、道路は川のように流れている。日本の50年前のようなリンタクは市民の重要な足のひとつ。通りかかったリンタクに値段も交渉せずに乗ったのが運の尽き。ホロ付きのリンタクは雨をしのぐには十分であったが、どうも遠回りしている気がする。地図を見ると反対側からグルッと大回りをしている。やっと店の近くでストップ、「10ペソ」1300円とはボッタク
ヘミングウェイの愛艇「ピラール号」
リ。「高いなぁ」と言ったが後の祭り。雨の中、リンタクのおっさんも必死でぺダルをこいでいたから「マァ!エエか!」。
 お目当てのレストランは予想通りの店構え。パステルグリーンの壁とブルーのテーブルクロスはとてもオシャレな雰囲気。絵画や絵皿がより一層店内を引き立てている。注文のパエリアは、鶏肉、ロブスターにムール貝、まだ少し芯のある米が食感をよくしている。塩味が少し勝っている感じはするが、わざわざ食べに来た甲斐は十分におまっせ。そこへ20人の団体さん(ギリシャ人)がやって来た。出来上がったパエリアは、ウェイターが2人がかりで運んで来る大きさ。パエリアとの記念撮影が始まる。こんなでかいパエリアとは初めてのご対面。楽しいランチは演出がいい。
「老人と海」とかっこ良く付けたタイトルも「リンタクとパエリア」……とでも変更せなあきまへんなぁ。
 酒呑小童子のキューバ旅行  今村茂雄
 1975年に初めてカリブ海に魅せられて以来、度々この地域を旅する機会に恵まれたが、ついぞキューバにだけ訪れることがなかった。今度の旅はキューバ+へミングウェイ+カクテルの三題噺を実体験する楽しい旅となった。
 通常この地方で供される酒は、トロピカルの名で酒度の高い蒸留酒をベースにした強烈な色彩のカクテルが多く、それぞれにはロマンチックな名称が付けられている。ここキューバにも有名なカクテルがいくつかあるが、他の島々との違いはそれぞれが物語をもっていることであろう。
 モヒート ペパーミントを長スプーンの背で摺り潰し、ホワイトラム、砂糖、ライムなどを加え、炭酸水で割ったキューバ独特のカクテル。へミングウェイがこよなく愛したと伝えられ、海風に吹かれながら飲む清涼感は何に譬えようか。彼は1日に10杯も飲んだという逸話が残っている。
 ダイキリ ホワイトラムに砂糖、ライムを加え、細砕した氷でシェイクしたシャーベット状のカクテル。日本の分量の3倍はある。ヘミングウェイが好んだ砂糖抜きには「パパ・ダイキリ」の名が残り、「パパ・ダブル」は彼特注の強い辛口ダイキリで、陽も高いうちから飲み出すことがしばしばだったという。
ヘミングウェイも愛したフローズンダイキリ
 彼が飲みに通ったラ・フロリディータには、常連の席に銅像がどっかと飾られ、定宿として泊まったアンボス・ムンドスには彼の部屋が小さな記念室として保存されている。
 これらのベースになっているのがキューバの砂糖キビからつくられるキューバン・ラムで、年代知らず(1年以下)から3年、7年、15年と、年を経るにつれてダークになり、若年物はカクテルに使われ、ダークラムは琥珀の酒としてストレートで飲まれる。南国のコニャックとでも称すべきか。キューバで最も有名なラム「ハバナ・クラブ」には、キューバ女性の象徴で初代女性提督であったラ・ヒラルディージャの像がラベルに飾られている。
 さて今宵もラムでへミングウェイ先生に乾杯!
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●会報「TOURISM」1999年冬号より

JTWO創立25周年記念座談会

観光が21世紀の真の豊かさを育てる

〈出席者〉
村田吉隆◆衆議院議員・自民党観光問題特別委員会 幹事長(当時)
岡本伸之◆立教大学 観光学部長(当時)
斎藤茂太◆日本旅行作家協会会長
〈司会〉 中村浩美◆日本旅行作家協会事務局長(当時/現在は専務理事)


 日本旅行作家協会は1998年に創立25周年を迎えました。これを機に、これからは旅行文化の向上のために具体的な貢献をしていかなければいけない時と考えています。そこで今回の記念座談会では、自民党観光問題特別委員会幹事長をしておられる村田吉隆衆議院議員と、日本で初めての観光学部を受け持っておられる立教大学の岡本伸之教授をお迎えし、わが斎藤会長とともに日本の観光の未来についてお話しいただきました。

産業としての観光を考える

中村 本日はお忙しいところをありがとうございます。今回の座談会のきっかけは、村田議員の『自由新報』でのインタビューを拝見しまして、「観光は21世紀の基幹産業となるであろう」というのに非常に触発された部分がございます。そこで、まず最初に村田議員から、観光というものを日本のなかでどのように位置づけていらっしゃるのかをお話しいただけますでしょうか。
村田 はいわかりました。日本における観光を考えたときに簡単にいって3つあります。まず1つは、日本は豊かになったといわれるけれど、モノについてはある程度満足するところまでいっただろうと。そこで次は、やはり自分の好奇心を、あるいは体験を積み重ねていって楽しみを満足させる、こういった観光とか旅行とかの面ではまだまだ未開発のフロンティアが残っているのではないか―これが我々の最大のテーマにならないはずはないと取り組んだわけです。それからもう1つ。私も含めて地方からの議員にとっては、観光は地域開発になるのです。地方自治体がみんな「観光、観光!」といっていますからね。そういうこともありました。そして最後の1つは、私も触発されたんですが、ドイツ観光協会の東京事務所の方をお呼びしてお話をうかがったら、「ドイツはメーカーの国と思っておられるかもしれませんが、ドイツにとりまして観光産業は第2の基幹産業です」と言われましてね。ドイツにしてそうなんだと。やはり相互理解で、日本をもっとよく知ってもらうために外国人に来てもらう―これが政治のテーマでも必要だと、21世紀にむけて我々が取り組んでいかなければいけないと思ったわけです。
中村 ドイツは、たとえばメルヘン街道に始まるプロモーションというのは完全に仕掛けたものなんですね。あれは意図して連邦なり地方なりが世界に向けて発信した。いってみれば自分たちの手で観光ルートをつくって、それがとくに日本人にうけたわけです。一方、アメリカでは、私の知ってる限りでも70年代ぐらいから旅行は重要なインダストリーであると、商務省もそう考えておりました。とくにリージョナルな都市であるとか州であるとか地方というのが、盛んに日本にもミッションを送ってきて、完全にその地域の基幹産業としてツーリズムをとらえるというプロモーションを、ずっとこの20何年やってきているわけで、その成果は明らかに出ているんですよね。そういうことを考えますと、立教大学の岡本先生は、日本で初めての
観光学部というのを担当されていますが、産業としての観光、いわゆるコンベンション・アンド・ツーリズムというものをはどうとらえていらっしゃいますか。
岡本 観光を産業というとらえ方をしていいのかな、という感じがすこしありますね。そのことをご理解いただくために、いまの村田先生のお話に関連していくつかお話しさせていただきます。まず最初に村田先生のような方が、観光に対して理解を示していただけるということを大変うれしく思っております。いま3点についておっしゃいましたが、いちばん最初のところから少し触れさせていただきますと、現在、日本人の国内観光、宿泊を伴う観光旅行の平均宿泊数というのが1.6泊なんですね。1泊2日という方が5割以上。これで、なんで豊かなのか、世界第2の経済大国か、笑わせるなという感じですね。これをなんとかしていただきたい。それから、2番目に地域開発、地場産業というお話がありましたが、
WTOのデータによれば、移民局の入国審査など、そういう方を含めて、いまや世界で雇用されている人々の10人に1人は何らかのかたちで観光に関わっているという報告がなされています。つまり世界で6億を超える人が移動に関連している。これは文字通り産業としてとらえれば大産業だと思います。それから3番目。今日、データをお持ちしたんですけれども、日本旅行作家協会ができましたのは1973年だということで、4半世紀の変化というのを振り返ってみたいんですが、73年当時、日本人の海外旅行、アウトバウンドというのは228万9千人だったんです。ところが平成9年は1680万3千人になった。7.3三倍に伸びたんです。私はこの7.3倍という驚異的な伸びに、この協会が果たした役割というのは非常に大きいと思います。日本人はみんな『兼高かおる世界の旅』を見て、胸を踊らせて旅行したんだと思うんです。ところが目を外人旅行、インバウンドのほうに転じますと、73年当時が78万5千人だった。ところが平成9年は421万8千人。5.4倍にしか伸びていないんですね。そしてもっと問題なのは、倍数もさることながら、73年当時は入りと出の比率が1対3だったのが、平成9年には1対4になってしまった。ですから乖離というのは広がっているわけです。ところで、入りの421万人という数字がどういう数字かというと、96年のデータで世界で32番目です。1番はご承知のようにフランス。フランスというのは6千万人を切る人口で、なんと6千万人を超える外国人旅行者を迎え入れている。フランス人で出ていくのは1800万人ですから、だいたい日本人と同じぐらいですが、入ってくるほうが桁違いですね。この32番目の421万人というのは私は大問題だと思っています。32番目なんていうのは、もう順位がないのと同じですね。ということは目線を世界に移せば、日本なんてまったく論外の国です。行ってみようなどという気がこれっぽっちもおこらない国ですね。それで日本の安全保障というのは保てるのか・・・。つまり、世界から見れば、日本人というのは経済大国といばっているけれど、なんだかよくわからん薄気味悪い存在で、行ってみたいなんてだれも思わない国。これで21世紀は大丈夫か非常に心配です。それからもう1つは、日本の人口は2009年をピークに、そこから先は少なくなっていきますね。日本はへたするとゴーストタウンになる。交流人口を膨らませて、場合によっては移民を受け入れるぐらいの気持ちがなかったら、この島国は衰退の一途だと思うのです。
※1 立教大学観光学部 社会学部観光学科から独立して、1998年4月に創設された。埼玉県新座市の同大学武蔵野新座キャンパスにある。
※2 WTO(World Tourism Organization) 世界観光機関。1975年に設立。事務所はマドリードにある。
※3 『兼高かおる世界の旅』 1959年から90年まで31年間にわたってTBSテレビで放映された日本を代表する超長寿番組。兼高氏がナレーター、ディレクター兼プロデューサーをつとめた。

インバウンドとアウトバウンド

中村 斎藤会長、たしかにインバウンドの問題というのは大きいと思うのですが。
斎藤 たしかに私もそう思いますね。いま、外へ出るノウハウはやたらに情報過多なぐらいあるんだけれど、外人を呼び寄せるということはほとんど議論されていないですからね。クイーンエリザベス号のような大きな船が日本にときどき来ますね。しかし、ワールドクルーズなどのルートを見ると、日本はほんとうに除外視されていて、たまに来るだけなんですね。今度、「ロイヤルバイキングサン」という私もいい船だと思って推奨している船があるんですが、これが今年日本に来ます。おそらく桜を見にくるのでしょうね。4月なんですよ、入港が。でも東京の晴海にたった1泊。少なくとも船を見ただけでも日本は除外視されているのがわかります。ずいぶんいろんな船がワールドクルーズをやってますが、日本に立ち寄るというのはほんとうに数えるほどしかありませんね。
中村 外客誘致法という法律はあるんですよね。
村田 あるんです(笑)。でも運輸省のほうも実際、ほんとうに力を出していないのです。旅館をどうやって外人向けにするかという、国際観光旅館みたいな思想がまだ残ってるものですから、チャチなんですよ。
中村 岡本先生ご指摘のインバウンドの問題というのは、皆さん共通した点だと思うんですが、やはりこの乖離しているインバウンドとアウトバウンドを、なんとかバランスよくさせることを考えると、これは国家として取り組むべきところがまずあって、村田先生がおっしゃるように政治のテーマでもあると思うんですね。それとともに気になるのは、いま旅館の話が出ましたけれども、日本のいわゆる観光関連産業の皆さんが、どれだけ意識を持っているのか。このあたりは岡本先生がホスピタリティの専門家でいらっしゃいますが、外国の方を迎えるホスピタリティとはいったいなんなのかということを、日本人一人ひとりや観光関連産業も含めて、突き詰めて考えているのだろうかと思いますね。そうなると外国人どころじゃない、同じ日本人同士でも、それは我々のライフスタイルの問題でもあるけれど、観光関連産業や観光地それ自体の魅力開発というのが、ほんとうになされているんだろうかというところまで感じてしまうのです。
岡本 まったく中村さんのご指摘のとおりでして、ホスピタリティというのを日本人は勘違いしているんですね。「おもてなし」と言いますけれども、木村尚三郎先生によれば、どうも語感が違うと。たとえば、よく旅館の女将のおもてなしという話がありますが、あれは要するに単なる商売です。ホスピタリティというのは相手があっての概念で、その相手というのはなんらかの意味で弱い人なんですね。たとえば旅に出て、日本に来ていろいろなことが分からないと。さっきメルヘン街道の話が出ましたけれども、あそこへ行けば日本語で道案内があります。ところが、私の郷里は山口県の下関ですが、下関から関釜フェリーがあり、車で韓国に行けたり、韓国の人が韓国ナンバーの車で来れるわけですが、下関市内に韓国語の案内標識なんてなにもありません。つまり日本人というのは目線が、こちらサイドにしかないんですよ。「おらが県が」と各県みんな空港を持ちたがる。しかし日本を代表する空港というのはいったいどうなんだといったら、えらいケチな空港です。そうすると世界から相手にしてもらえず、ルートからも外れてしまう。港の問題でいうと、いま世界のコンテナ船というのは6万トン、7万トン級です。これが世界の物流を担っています。ところがその6万トン、7万トン級の船が立ち寄れるところというのは日本では神戸に1か所あるだけ。シンガポールや台湾や韓国などでは着々と用意しています。日本人というのは目線が内向きですから、「日本いい国、住みよい国」と。ところが目線を向こうに移すと、日本は汚いブロック塀で囲んで、自分のところだけいい町と。「おらが家も向こう三軒両隣り合わせて景色のひとつ」というような発想は微塵もない。だから町は汚い。でもそれさえわからないんですよ、観光客の眼差しがないから。イギリスがいかにいい国か、パリがいかに美しい町かということを語る日本人トラベルライターというのはゴマンといます。しかし、パリの人やイギリス人が日本をどう思っているか、ということを語る人はほとんどいない。だからホスピタリティのことをいうのだったら、まずは目線を向こうに移して、外国人が来てなにが困るかを考えて欲しい。実際、いちばん最初に困るのは道案内ですよね。世界に行けばどこだって道案内してくれる場所がある。日本はまったくないです。  それから食事です。英語のメニューさえないですからね。日本はまったくひどい国で、要するによそものを迎え入れようなんていう気は、これっぽちもない国。そんなことをやってるから世界から遅れて、経済もこんな状況。21世紀を見てもなんの希望もない。あとは人口が減って、高齢化して、坂道を下るだけという感じですね。


日本人の旅は休むためのもの

中村 相当きびしいご指摘です(笑)。村田議員は逆に坂道を転げ落ちないようにとお考えのようですけれど。
村田 私は、やはり日本の旅行者がまだ啓発された、いい旅行ができていない、そういう発想がない旅行者だから、受け入れるほうもそんな感じになっていると思いますね。たぶん、日本人の旅行というのは、「休む」というところから出てきたんじゃないですかね。温泉もそうでしょう。だけど、外国人の旅行というか遊び方は積極的に出ていく遊び方じゃないですか。そこのギャップ、変化というのに日本の国はまだついていけない。だからいままでの日本人は、仕事を一生懸命やって、1泊2日ぐらいで気を抜くとか疲れを癒すとか、そんな旅行のしかたが大半なわけです。
中村 1泊2日では疲れに行くようなものなんですけどね(笑)。
村田 積極的に外に出て景色を楽しむとか、歩いて町を見るとか、美術館を見るとか、そういう積極さが日本の旅行者には少ないですね。
中村 インフラやファシリティとかそういう問題もあると思うんですけれど、いまお2人の話に共通しているのは、「日本人の心の問題」というような要素もあるかと思うんです。そちらのほうは斎藤会長が専門でもありますし、心配りとか気配りっていったいなんなのかと・・・。
斎藤 何年か前に京都の柊家に泊まりましたら、外人客が多いんですよ。みんな浴衣着てね、座ってご飯食べてよろこんでいる。しかし、日本式のこれは彼らにとっては大変な苦痛だろうと思うの。やっぱり、自分で旅行してみてね、これはいいところだ、あるいはちょっと具合悪いなと思うのは「生理的な不快感」ですよ。ですからまず生理的な快感を与えることを考えなくてはいけない。以前、ある有名な日本旅館で、西洋式を取り入れたという旅館に泊まったことがあるんですよ。そして部屋のお風呂に入ったの。体を拭こうと思ったら、バスタオルがどこを探してもない。座敷のはるか向こうのほうに手拭いがかかっているの。体、びしょびしょなんですよ。抜き足差し足で、その手拭いを取りにいったおぼえがあるんです。僕は大変な不快感。それは床の間は立派だし、いいんだけど、その宿には2度と泊まりたくない。それからヨーロッパでのこと。化粧室にシャンプーとかいろんなものが置いてありますね。あれ、字が小さすぎて僕の目では見えないんです。眼鏡をかけても見えない。メーカーの名前だけ大きく書いてあって、これはリンスなのかシャンプーなのかオードトワレなのか、さっぱりわからない。こういうので嫌になってしまう。僕はいま佐渡島と仲がいいんですけれど、佐渡汽船をほめているのは非常に字が大きいんですよ。トイレでも何でも、はっきり「便所」って大きく書いてある。これから超高齢社会になって、目の不自由な人が増えるでしょう。そういう生理的なことを考えないといけませんね。
岡本 斎藤会長がおっしゃってることは、基本的に目線をこちらから向こうに移せということなわけですね。そして、さっきのホスピタリティの続きですけど、冒頭に「必ずしも産業にはこだわりません」と申し上げましたが、ホスピタリティの本質というのは、弱い立場の人に対する思いやりなのです。これは本来、慈善なんですね。ボランティアなんです。ですから、私はこれからの観光の担い手はボランティアだと思います。ボランティアガイドとか、自然を保護するボランティアとか、エコツーリズムなどがそうですよね。私は昨年、政治家の方は非常にいいことをしてくださったと思っているのです。それはなにかというと、
NPO法というものが成立したんですね。ノン・プロフィット・オーガナイゼーション。これは要するに市民活動団体に法人格を与えて、積極的にやってもらおうということなんですね。私は、NPOやNGOが21世紀に向けて観光の担い手になっていくだろうと考えています。アメリカなどは、あれだけの余暇施設をだれが整備したかというと、そういう同好の士が集まって、NPO、社交クラブというかたちでやっているわけです。ゴルフ場などはほとんどNPOですよ。だから受益者負担で、そういうものをどんどん整備していくという発想なわけです。それからもう1つ。今度は日本の政治家の先生方をきびしく批判したいと思っていますけれど、日本というのは悲しい国だと思うんですね。それは、あの日本の高度経済成長を支えた日本人労働者に対して、有給休暇を与えなかったんですよ。いまだに与えていないです。世界で日本だけです。恥ずかしいですね。ILOの有給休暇条約では3週間取りなさい、そのうちの2週間をまとめ取りしなさいとなっているわけです。これを日本政府は批准できないんですよ。世界の有給休暇先進国は5週間ですよ。3週間の有給休暇条約も批准できないような国というのは、ちょっとないんじゃないかと思うのです。それくらい、日本の政治家や企業の経営者は労働者に対して休みを与えなかった。ですから日本人は旅行できないわけですよ。世界で「旅行」といったら家族旅行に決まっているわけです。ところが親が仕事しているものだから、日本は家族旅行がないんですよ。若い人は若い人だけで旅行、親は会社で慰安旅行。日本の旅行のシーンというのは、世界から見たら異常ですよ。そういう社会の制度的なインフラというものを抜本的に変えていかないと、日本の観光というのは国際的なものにならないと思いますね。
※NPO(Non-profit Organization) 非営利法人。民間非営利団体。市民運動やボランティア活動などをする人々によって組織される。

旅行は人間の本能

中村 自民党では観光問題特別委員会を設置されて、まさにいまおっしゃったようなことに取り組んでいかれるわけですね。
村田 おっしゃるとおりです。岡本先生が象徴的に批判されてますが、我々は豊かにはなってない。それはなぜかというと、やはり旅行ができていない。そういう意味で、観光というものができるような世の中にしていく、そのなかでいままでの制度を変えていく、ということなのです。
斎藤 私は心を病む人を扱うのが本職なんです。いろんなケースがあるけれども、総じて病気が悪くなると、いちばん最初に出てくるのが、みんなと食事をともにしなくなるんです。これを僕は「共食」と言っています。人類だけなんですよね、共食動物は。わずかにチンパンジーが少しそういう傾向があるだけ。それからもう1つ、移動しなくなる。家の中に閉じこもってしまう。  この「共食をしなくなる」、「家の中に閉じこもる」というのが、だいたい心の病のいちばん最初に出てくる症状なんです。それで治療が進みまして、だんだんよくなってくると、食堂へ出てきて、ほかの方と一緒に食事をするようになる。しかし、顔はまだしかめっ面。ところがもうちょっとよくなると、談笑するようになる。これは人間に戻った証拠。それから「旅行に行っていいですか」と言い出します。「イタリアへ行きたいんですけれど?」「ああ、行ってらっしゃい、行ってらっしゃい」と。それで僕がお薬を持たせてやると、たいがい残してきますよ。旅行中、薬を飲むの忘れちゃいましたとか、忙しくて飲めなかったとかいろいろあるけれども。つまり食事を共にする、それから旅に出たいという気持ち。これはね、正常に戻った証拠なんです。旅行というのは人間の本能なんですよ。
岡本 いまの両先生のお話に関連して2つ申し上げたいんですけど、1つは「ホリディ」という言葉がありますけれど、語源を調べたことはありませんが、おそらくホールだとかホリストに関係があると思います。要するに旅行に出かけると、全部自分でやらなければいけないから、人間が全体性を取り戻す契機になるんだろうと思うのです。だから旅をすることが重要で、ごろごろと寝たきりなんていうのは悲惨の極み。人間というのはそれこそ斎藤先生がおっしゃったように旅をすることが本能なんであって、旅行に出れば人間が人間性を取り戻すんだということですね。それから「バカンス」というのがありますけど、これはバケーション、ベイカンというのは「空にする」ということですね。だからまったく身も心も空にするということが本質なんです。なぜそれが大事かというと、空にして初めて大事なことが見えてくる。昔のように日本人みんながブルーカラーでしたら、5時にベルが鳴ったら、あとは野球かなんかして気晴らしになったんですけれど、いまはみんなホワイトカラーですから、週休2日なんていったって、仕事から解放されません。だから1泊2日とか2泊3日ではだめなんです。1週間、2週間ドーンと休んで完全に空にすると、「このままじゃどうも日本いかんぞ」というような知恵もわいてくる。ところがいまみたいな生活してたら、21世紀を生き抜く知恵もわかないですよ。
村田 外国旅行だと「1週間や10日ぐらい休むか」、そこまで来たんですよ。周りのみんなも認めるんです。国内旅行でもせめて1週間や10日休めるよう社会の認識がなったときに、少しずつ変わってくるんだろうと思いますね。しかし、まだ日本人が「自分たちはもっと一生懸命働かないといけない」と思ってるわけで、外に遊びにいくということを、大事な生活の要素だと認め合うところまで来ていないんですよ。だから受け入れ態勢も、それなりのものしかないということでしょ うね。


ノー・アクティビティこそが

中村 岡本先生の観光学部に学んでいらっしゃる方は、具体的な観光に関する目標を持って学んでいると思うのですが、一般の我々が「旅に出る」ということの本質を、自分のものにしなければと感じるんですね。先ほどからアウトバウンドは伸びもすごい。ところが日本人の海外旅行のしかたを見ると、ドイツやイギリスの人が外国旅行をするのとまったく内容が違うわけですよ。とにかく海外旅行が珍しくて駆けずり回る旅行も1回目はしょうがないと思います。でも、リピーターになったら、もうちょっと自分の旅を考えてほしいということを私は言っていて、最近は「日本人よ、旅行に行って何もしない勇気を持て」というのを、ひとつのメッセージにして、いろんなところで言ったり書いたりしているのですけれど。
斎藤 世界一周の船なんか、ロングクルーズでしょう。ところどころで、お客さんを休ませるために、「ノー・アクティビティ・デイ」といって何もしない日がある。そうしたら、「今日はノー・アクティビティ・デイです。どうしたらいいんでしょう」って聞いてくる(笑)。これ、日本人だけ。
中村 そうですね。まさにノー・アクティビティというのが旅じゃないかと思うのです。そこのところがまだ日本人の場合は「何かしなきゃ」が先行して、日本の観光地も「ハードを造って客寄せをしなければ」というようなところへ行ってしまう。たとえば歴史とか伝統芸能であるとか、そういうものを大事にするだけで実は人は来るんだというようなことや、自然を大事にする、自分たちの町を愛する人たちの姿が町を見ただけでわかるならば、心の安らぎを求めて旅人は来るはずなんですよね。でもそういう努力の方向ではなくて、なにかアクティビティのための施設を造らなければ客は来ないという。だから博覧会をやりたがるのもそうですし、テーマパークをやたらと造りたがるのもそうだと思います。そのへんが、たぶん共通した問題としてあって、それが一人ひとりの旅のしかたにも、それを迎え入れようとする観光産業にも、あるいはそれを地域起こしの起爆剤にしたいという自治体などにも根のところにあるのではないかと感じるのです。
岡本 住んでいい町というのは、訪ねていい町でない場合があるんですよ。豊かさ指標を見ますと、新国民生活指標を経企庁がやっていますが、住んでいい町というのは北陸です。トップは福井県、富山県。ところが、そういう町が訪ねていい町かというと、全然訪ねていい町じゃないんですよ。じゃあどうしたらいいかというと、これは非常に簡単であって、「世界の常識」を国内に入れればいいのです。ですから、まず駅を降りたら案内標識がありますかと。それからいろんなところへ行きたいですね。そうすると1枚の切符で電車だろうが地下鉄だろうがバスだろうが乗れるというのが世界の常識ですよ。1枚の切符でお城だろうが美術館だろうが博物館だろうが旅行者であればどこでも行ける。これも、世界の常識です。それから食事がしたい。だったら3千円なら3千円のミールクーポンで地元の名物をチョイスできる。これも世界の常識。そういう世界の常識を、旅行者の目線に立って「おらが町によそから客人が来たときに、どういう気持ちを持つか」と、ちょっと考えればいいことなのに、そういうことができない。仙台なんかへ行ったって、駅の改札を出ても案内所ひとつないです。物売りばっかりですよ。ですからおそらく仙台の人は、「とにかく仙台、いい町」と。しかし旅行者にとってはまったくいい町じゃないですね。
斎藤 中国でも、漢字はもちろんだけども、必ず横文字を添えてますでしょ。あれは国が広くて発音がみんな違うせいもあるかもしれないけれど、アルファベットは必ず書いていますね。あれは感心ですね。
岡本 僕が申し上げたことを常識としてやってるところ、どんどん出てきています。たとえば滋賀県の長浜では1枚の切符で近在のところは全部回れるとか、松江でも1枚の切符で乗り降り自由で観光客のためにバスが走っています。小樽では、3千円、5千円で小樽市内のイカソーメンとか、そういうものをチョイスできるとか、どんどんやっている。やっていないところに限って、行政に「おまえらキャラバンやれ」とか、つまらないこと言っているわけですよ。自分たちは30年前と同じ商品を売ってるわけです。世の中で30年前と同じ商品で売れるようなビジネスなんてありませんよ。
中村 そうですね(笑)。
斎藤 たとえばスイスは、国内どこでも自由にバスや列車に1枚のチケットで乗れるじゃないですか。あれはとてもいいですね。
村田 日本では情報を提供する1つの組織として観光協会というのがありますが、それがあまり機能していないんですね。フランスのアイ・オフィス、あれはどこへ行ってもあるし、紹介のパンフレットなんかもすごくわかりやすくなっていて、うまくできていると思いますね。日本の場合はお金がないということもあります。ご飯食べたりすると7千円以上になると払う特別地方消費税というのがありましたね。あれが財源だったんですが、今年から廃止されます。だから観光協会は細々とやってきたのが財源がなくなり、僕らは本格的にどうしようかと頭をいためています。
岡本 新たな財源についてはですね、これも世界の常識ですけど、要するに観光客は受益者負担で、美しい自然を楽しんだらお金を払うのが常識なんですよ。世の中、ただの昼飯なんてあるわけないんだから、お金を払うというのは世界の常識ですよ。日本人ぐらいですよ、一銭も払わないで美しい自然をよこせというのは。
斎藤 中国みたいな国でも、公園なんかでは必ずお金を取りますからね。
岡本 これはさっきのNPOの存在というのが大きいのです。ボランティアといいますと、無償というふうに考えるでしょうが、そんなこと考える必要ないんですよ。非営利法人でお金を出したらいいんですよ。世界でNPOやNGOというのは、大変な雇用をしているわけですからね。村田先生がおっしゃったように、観光協会のやってることは、とにかくまず白紙にして考え直さないとだめですよ。


当協会もNPOの資格がある

中村 NPOの話が出ましたが、我々日本旅行作家協会というのも、NPOの1つとしての資格があるのではないかと最近考えているんですけれども。
岡本 もちろんあります。
中村 当協会は、旅という共通項があるだけでほんとにゆるやかな組織で、いろんな活動をしている方が集まっている会なんですけれども、おふたりのお話をうかがっていて、これからの日本にとって非常に大事なもの、ツーリズムでいえば、我々の協会のような存在というものが、ひょっとするとキーになってくるのではないかと思います。そういうものが社会のいろいろな分野で出てくると、日本の21世紀の社会づくりが可能になってくるのかな、と感じています。
村田 皆さん方の影響力はすごく大きいですから、日本の旅行のあり方とか、インフラから含めて、こうしてもらいたいという要望を大いに聞かせてもらいたいですね。みんなどうしたらよいかわからなくて苦しんでいるんですよ、旅館なんか。ですからそういう意味で、指摘というかアドバイスや提案をぜひお願いします。
中村 我々も実は自治体に対していろいろアドバイスを申し上げたり、実際に現地へ行って調査をしたり、業界の方とお話ししたりという機会はいくつかのところでは持っているんです。最近の例でいうと、高知県もそうです。実は私たちが視察をしたときに申し上げたことがきっかけだったんですが、ホスピタリティ事業というものを98年度は予算をつけて行っています。我々でホスピタリティ事業の調査もやりましたし、経営者対象の講演会などもさせていただきました。
岡本 73年にこの協会ができたときの設立の言葉に「商業主義に毒された」という表現がありますが、協会には商業主義ではない文化交流の側面に光を当ててほしいという感じがしますね。それと、普段着の観光といいましょうか、日本人の観光は食い気だけかというような感じがします。日本のホテルなどでも出してくるのはコレステロールのかたまりみたいな体に悪いものばかりですよ(笑)。もう少し常識のある、肩の力を抜いた普段着の日常食のなかで交流しないともたないですよ。それから最後に、どうも日本人は「観光、観光」と言っているものですから、見たらいい、見るだけという感じがしますね。これは残念ですね。だから見るだけじゃないんだっていうところへ、どんどん旅のスタイルを大いにふくらませいく。そういう面で、ぜひ協会がリーダーシップをとっていただけたらと思います。
村田 本日は岡本先生からだいぶご指摘を受けましたのでね(笑)。とにかく、自分たちが楽しい旅行をするためには、やらなければいけないことがいっぱいあると思いますね。そういう意味で、もっと日本も観光を大切にしなければいけない。観光というか、旅行というか、暇の過ごし方というか、興味の開拓のしかたというのかよくわかりませんが、楽しい旅行をつくるために政治レベルで障害をつくっているならば、消滅させなければいけないですね。でもいろんな人がいろんなことをいうものですから、なかなかね。皆さん方にもぜひともご指摘をいただきたいと思います。
中村 私どもとしましても、立教大学観光学部、あるいは自民党観光問題特別委員会に大いに期待しておりますので、よろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。
旅行作家が選んだ20世紀の名列車

 日本旅行作家協会のサブグループのひとつ鉄道研究会では、『旅行作家が選んだ20世紀の名列車』というアンケートを実施、集計をすすめてきましたが、このほど、20世紀最後の鉄道の日(2000年10月14日)を目前にして、その集計結果がまとまりました。
 鉄道の発展にとって、20世紀というこの100年は輝かしい進化の世紀でした。旅行・移動の手段としての重要性は、他の交通機関にまさるとも劣らず、鉄道は黙々とその使命を果たしてきました。今、この節目の年に、鉄道の歴史を振り返り、旅の想い出を作ってくれた、あるいは人生のワンシーンを演出してくれた、忘れがたい列車をリスト・アップして、後世にその名を残すことは、意義のあることだと考えます。
 私たち旅行作家が、それぞれの想いを込めて選んだこのランキング結果を、記念すべき鉄道の日に、皆様のお力で広くお伝えいただきたく、ここにお知らせする次第です。

◆日本旅行作家協会の鉄道研究会に所属する会員を中心に有志にアンケートを実施。各自にベスト3を選んでいただきました。個人の持ち点を10点とし、1〜3位の列車に持ち点を自由に割り振ってもらいました。1位=5点、2位=3点、3位=2点とした人もいれば、1位=10点であとは無しとした人もいました。その得点を集計、順位をつけました。「20世紀の」ということなのでベスト20としました。
◆なお、このアンケートの詳細などのお問い合わせは下記までお願いいたします。
 日本旅行作家協会 鉄道研究会 世話人  野田 隆(理事)
順位  ★名列車★ 得点 コメント
1位 オリエント急行 (ヨーロッパ)  87点 ゴージャス・ロマン・欧州文化の極み
2位 あじあ号  (旧・満州) 45点 日本の鉄道技術と歴史の象徴
3位 氷河特急 (スイス) 30点 スリル満点、他に例がない
4位 ブルートレイン(南アフリカ) 27点 5つ星ホテルのサービスとサバンナ
5位 新幹線「ひかり」(日本) 25点 世界に高速鉄道の有益性を示した
5位 新幹線「のぞみ」(日本) 25点 日本人による鉄道技術の頂点
7位 ロシア号(シベリア鉄道/ロシア)  24点 世界最長距離を走る列車
7位 TGV(フランス) 24点 ヨーロッパ最初の新幹線
9位 カナディアン(カナダ) 23点 森林・大平原・ロッキーと変化する楽しさ
10位 インディアン・パシフィック(オーストラリア) 21点 世界一の直線区間を走る
11位 ベルゲン急行(通称)(ノルウェー) 18点 オスロからベルゲンまでの景色の素晴らしさ
12位 北斗星(日本) 16点 日本初の北海道直通列車
12位 20世紀特急(USA) 16点 アメリカン・ドリームの象徴
12位 ロッキー・マウンテニア(カナダ) 16点 雄大なカナディアン・ロッキーを見ながらゆっくり旅ができる
15位 ラインゴルト(ドイツ他) 15点 車窓から望むライン川と古城
16位 つばめ(東海道本線/日本) 14点 風格ある列車、幼年期のあこがれ、想い出
16位 ユーロスター(英仏ほか) 14点 トンネルで英仏を結んだ歴史的悲願の達成
18位 ICE(ドイツ) 11点 不幸な事故をバネに大躍進
18位 ミストラル(フランス)   11点 乗れば心は南仏の風物・画家のことで満たされる
20位 こだま(在来線/日本) 8点 国鉄初の電車特急
番外として
◇小海線の終戦前のSL列車(日本) 飛び降りて花を摘んで、また飛び乗れた。
◇VIA(ウィニペグ〜チャーチル/カナダ) ドームカーの車窓からオーロラが見られる。
◇(戦前の)富士(日本) 格が全く異なる「特急」。
◇AVE(スペイン) スペインは本気を出せばすごいことができるんだ。
◇インターシティ(ドイツ) 特急列車の大衆化・ネットワーク化を具現。
 

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