大久保有満子/文・写真
スプリト(クロアチア)
2025年6月9日(月)
ボスニア・ヘルツェゴビナからクロアチアへ
山々に囲まれたヘルツェゴビナ(ボスニア・ヘルツェゴビナ南部地方)からバスでクロアチアに入国。首都ザグレブに次ぐクロアチア第2の都市スプリットへ。
紺碧のアドリア海に面した港町で、ヨットハーバーや海沿いのヤシの木に明るい陽光が降り注ぎ、気持ちの良い風が吹き抜けていきます。グルーズ船の寄港地としても人気のリゾート地です

アドリア海観光の中心地スプリト
その歴史は古く、3世紀末から4世紀初頭のローマ皇帝ディオクレティアヌスが、退位後の余生を過ごすために建てた宮殿(南北214メートル、東西174メートル~181メートル)がベースとなった街です。「スプリトの史跡群とディオクレティアヌス宮殿」として旧市街全体が世界遺産に登録されています。

旧市街そのものが生きた博物館
ディオクレティアヌス帝は、244年ローマの属州サロナ(現在のクロアチア・ダルマチア地方のソリン)で生まれ、一兵卒から皇帝に上り詰めた人物です。305年自ら退位し、生まれ故郷のサロナに近いスプリトに建てた宮殿で亡くなるまでの10年間を過ごしました。宮殿というと煌びやかなイメージがありますが、高さ20メートル以上の強固な城壁で囲み、東西南北に4つの門を設けた造り。軍人皇帝らしさが感じられる宮殿です
ディオクレティアヌス帝の死後は廃墟同然となりますが、7世紀に異民族の侵入により難民となったサロナの住民が、要塞のように堅牢な宮殿に避難。宮殿の基礎部分はそのままに、その上に建物を増築する形で街を築いていきました。古代と中世の建物が混在する独自の街並みに、今も住居やオフィス、商店が溶け込み、人々が生活を営んでいます。そうしたユニークな都市構造が評価され、1979年世界文化遺産に登録されました。


宮殿へは海側に面した南側の「青銅の門」から入り、まずは地下へ。かつては食糧庫やワイン蔵などに利用されていた地下空間は、神秘性を感じると共に、しっかりとした造りに1700年前の建築技術の高さもうかがえました。

東西南北4つの門から延びる道が交差する宮殿の中心は「ペリステイル」という広場になっています。かつては宮殿の中庭で、現在はコンサートやイベントが開かれるにぎやかなスポットです。石段にはクッションが置かれているので、歩き疲れたら近くのカフェで買ってきたコーヒーやアイスクリームを味わいながら休憩もできます。

ペリステイル広場の東側にある聖ドムニウス大聖堂は、本来はディオクレティアヌス帝の霊廟として建てられたのですが、後にキリスト教の教会として利用されることになります。実は、ディオクレティアヌス帝は303年から古代ローマ帝国史上最大規のキリスト教徒大迫害を行った皇帝。その霊廟がキリスト教徒の大聖堂になるとは…。教会らしくない八角形の造りが、なんとも皮肉な歴史を物語っていました。

受胎告知からキリスト昇天まで新約聖書の28の場面が描かれ、13世紀ロマネスク彫刻の傑作とされる入口の扉や、煌びやかな祭壇など、貴重な宗教美術品も見応えがあります。

大聖堂に寄り添うように立つ鐘楼は、宮殿の外からも見ることができる高さ57メートル。展望台に上がると街が一望できるスプリットのランドマークです。高所恐怖症でない健脚な人にお勧めします。
ペリステイル広場から南に進むと円形の広間に出ます。見上げると天井に丸い穴が開いた不思議空間。かつては皇帝私邸の玄関で、モザイクで装飾されたドームで覆われていたといわれています。
この独特な造りが音響効果を良くすることから、クロアチアの伝統音楽の男性アカペラコーラス「クラッパ」(2012年にユネスコ無形文化遺産登録)が不定期で披露されています。
港町の男たちが夜の広場や居酒屋で自然発生的に歌いだしたのが始まりの人生哀歌で、友情や愛、海、故郷が題材。この日も乙女への恋心を歌ったものでした。力強く温かみのあるハーモニーが心に響きました

御利益スポットを発見

見どころ&聴きどころ満載!スプリットの中心に今も息づくディオクレティアヌス宮殿。その北側「金の門」を出たところには、ご利益スポットもありました。市民の憩いの場ストロスマエル公園の巨大なグルグール・ニンスキの銅像です。
グルグール・ニンスキは、10世紀に実在したクロアチアのニンという町の司教で、それまでラテン語で行われていたミサに、初めて母国語のクロアチア語を導入したことで、クロアチア人のアイデンティティや独立の精神の象徴とされた国民的英雄です。

そのニンスキ像の左足の親指にふれると願い事が叶うといわれており、多くの人々が願掛けをするため左足親指はピカピカに光っていました(笑)。銅像自体もクロアチア近代美術の代表作の一つなので、銅像全体のアート鑑賞も楽しみましょう。