バルカン半島4カ国取材旅行(番外編)

川口築/文・写真

ドゥブロヴニク(クロアチア)

6月26日(水)

離団して単独でクロアチアへ

クロアチアには2度訪問しているが、それらは内陸部の首都ザグレブとクロアチア独立戦争の傷跡が今なお残るヴコバル、オスィイェクなど東部のスラヴォニア地域であった。「海のクロアチア」には行っていないので、いつか是非その代表的な町であるドゥブロヴニクを訪問したいと思っていた。そしてチャンスが巡ってきた。今回のJTWOバルカンツアーでは以前に訪問したことのあるアルバニア(ティラナ、クルヤ)やモンテネグロ(ブドヴァ、コトル)が最後の行程に入っていたので、離団して単独でドゥブロヴニクに行く手配をお願いしたのである。
バルカンツアーの皆さんと、アルバニア中部の町ベラットでお別れし、首都ティラナから迎えに来てくれた車でアルバニアの北部とモンテネグロの海岸線を通ってのドゥブロヴニク行きとなる。

ドゥブロヴニクに到着

9時間の移動を覚悟してスタートしたが、実際には大幅に時間が超過し、ホテルに着くのに10時間40分もかかってしまった。最も時間がかかったのはモンテネグロとクロアチアの国境であった。40〜50分の渋滞となった。クロアチアはEUの窓口となるのでチェックが厳しいようなのだ。夜の8時過ぎに、「アドリア海の真珠」と称される世界遺産ドゥブロヴニクの旧市街を取り巻く城壁の外に着く。

ドゥブロヴニクは9世紀に独立し、様々な国に支配されながらも自治を守ってきた都市国家である。15世紀から16世紀にかけて、当時の支配国オスマン帝国からバルカン半島その他の征服地における商業活動の自由が認められたことから、地中海屈指の商業港として全盛期を迎えることとなった。海上貿易はヨーロッパのみならず、大西洋や遠くインドのゴアまで拡がっていた。ドゥブロヴニクの歴史的な建築物は、この時代のものが多い。しかし、1667年の大地震と1991年から1992年のユーゴスラビア内戦によって、町はその殆どが壊滅してしまった。現在の美しい街並みが再現されたのは、住民の並々ならぬ努力があったのである。

城壁の北の入口に着いたものの、これからが大変である。町はすり鉢状になっており、城壁の門からホテル(アパートホテル)のある中心街に行くのに長いきつい石の階段を降りなければならない。ドライバーとはホテルまでの荷物の運搬も込みで契約していたので助かったが、当のドライバーは大変である。私のスーツケースは大きく、しかもその中には土産用のワインが2本と瓶ビールも1本入っている。お気の毒様である。

6月27日(木)

汗だくのドゥブロヴニク周遊

この坂道の大変さは、翌日もかなり味わった。ドゥブロヴニクを一望できるスルジ山に行くべく旧港からロープウェイ(何故か名称はケーブルカー)を目指すが、乗り場までも結構坂道である。朝早めだったせいか、ロープウェイに並んでいる人は思ったより少ないが、乗車券が往復で27ユーロ(約4600円)とはびっくりだ。為替の影響もあるがちょっと取りすぎの感がある。しかし上からの眺めは絶景。楕円形の城壁内にオレンジ屋根の建物がひしめく旧市街、その奥に鎮座する緑のロクルム島、そして青いアドリア海が素晴らしい。頂上ではクロアチア紛争博物館に行く。1991年のクロアチア紛争時の写真や映像がドゥブロヴニクを中心に展示されている。
館内で写真を撮っていると女性が声をかけてきた。アメリカのソルトレイクシティに住んでいるというドイツ人であった。彼女は壁の写真を指差して言った。
「このパヴォ・アーバン(Pavo Urban)という若いクロアチア人の写真家は、従軍記者としてドゥブロヴニクの戦場に向かい、たった2枚の写真を撮った後で、射殺されたんです。弱冠23歳だったんです。その2枚の写真がこれです」
それは旧市街中心部の歴史的建造物に砲弾が撃ち込まれた瞬間を捉えたものであった。パヴォ・アーバンは、これらの写真でクロアチア写真家の間でのカリスマ的存在になっていた。彼の絶命寸前の一枚に感動を覚えた。

今は平和な旧市街の北にあるミンチェタ要塞に向かうことにする。ガイドブックに載っていた砦からの写真のアングルが大変素敵であったからだ。ロープウェイ乗り場から直接砦に行こうと城外の坂道を登るが、城壁と間には堀のような深い溝があり、底部では更に車道が走っていた。目の前の要塞に行けない。仕方なく坂を降り、ツアー客がひしめくバスターミナルにある観光案内所で行き方を聞く。そのルートは、西の玄関口であるピレ門からフランシスコ会修道院の脇の坂道を登っていくものであった。そこはまた急な坂道の石段であった。見た途端ウンザリしたが、汗だくになりながら休憩をしながらゆっくりと石の階段を登る。やっと要塞の入口が見つかったので入ると、そこは城壁内にある博物館のためだけの入口であった。要塞の外には上がれないとかで、入口また別にあるらしい。がっくりしながら再び坂道を降りることとなる。疲れる。それでも降りてピレ門に向かうところにミンチェタ要塞への入口らしきところがあったので、入ろうとする。すると門番のじいさんがぶっきらぼうに言う。
「ここじゃない。港の入口に行け」
どうも町を一周するように囲んでいる城壁の遊歩道は一方通行のようで、目指す要塞に行くには、最も遠い入口のようだったのである。かなり遠方の入口を指定されてしまう。

流石に疲労困憊となったので一旦ホテルに戻って休憩し、開門時間などをチェックした後、再度街中を巡りながら入口へと向かう。折角なので眺望が良いらしいという民俗学博物館へ寄ってみるが、海側の高台にあり階段を何段も登る必要がある。昔からの生活に関する展示がなされている館内は、人が少なくて穴場ではあるが、ここも体力のいるところである。
城壁の遊歩道への入口は、途中行き止まりなどもあり苦戦。海洋博物館まで歩くとやっと城壁への入口がある。細い遊歩道からは、多くの小船が停泊している旧港がキラキラしているのが見える。この城壁のルートもだんだん上り坂になってくる。

日差しが強く結構ハードであるが、左手に広がる旧市街はどこから見ても絵になる絶景である。18時に複数の教会の鐘が鳴る。少し休みながら目指すミンチェタ砦にやっとたどり着く。確かに眺めは素晴らしいが、肝心の狙っていたアングルの場所がない。あるいは最初に行った砦の博物館からの写真であったのかもしれない。がっくり…。どっと疲れが出てきたが、折角なので下り坂を楽しむことにする。フランシスコ会修道院の古びたテラコッタタイル屋根も趣きがあっていい。

下に降りるとプラッツア通りにあるオノフリオの大噴水の周りは大勢の人だかりである。大道芸人が歌う民族音楽やハードロックカフェから流れてくるジャズが入り乱れて大変な喧騒である。フランシスコ会修道院に入ってみると礼拝をやっていた。ここは外と対照的に静かで厳かである。神父のメッセージに呼応して20〜30人の参列者が同じ言葉を吟じている。ドゥブロヴニクの日常にやっと出会った感じがする。再び喧騒の中向かったのはホテルお勧めのレストランHeritage of Dubrovnik。先の要塞に向かう石段を少し上がるが、もうこれくらいの石段は誤差範囲である。屋外のテーブルで、イカの詰め物の煮込み海鮮料理と赤ワインとスパークリングウォーターをいただいて、やっと生き返った感じである。それにしてもアップダウンの17000歩超は、シニアには結構なハードワークであった。

6月28日(金)

海と坂道の町にお別れ

ドゥブロヴニク3日目は、出発までの午前中を利用して近場を回る。バロック様式の聖ヴラホ教会からゴシックとルネッサンスが融合した様式の総督邸を通り、バロックの壮大な聖母被昇天大聖堂そして聖イヴァン要塞を活用した海洋博物館へと行く。荘厳な教会群も素晴らしいが、海洋博物館は見所が多い。イタリアとバルカン諸国に挟まれたアドリア海が、かなりホットな交易エリアであったことや、ドゥブロヴニクがいかに海洋都市として繁栄していたかということがよくわかる。それに加えて要塞跡だけに、港に繋がる湾の眺めも素晴らしい。

バルカンツアーのメンバーに合流する帰りの飛行機は、隣国モンテネグロのポドゴリツァ空港からである。夕方の便ではあるが、渋滞が予想されるため昼前の出発となった。私の送迎のために郊外で二泊していたドライバーがホテルに出迎えに来た。行きの階段に懲りて別の出入口にあるなだらかなスロープを選択するものと思っていたが、なんとまた一昨日降りて来た一直線の坂をそのまま登っていくと言う。週に三回ジムで身体を鍛えていると言っていた屈強なドライバーではあるが、流石にきついようで何度も休憩をしながらスーツケースを担いで登っていく。スーツケースは昨日買ったお土産で一昨日より更に重くなっている。しかも上り坂である…。またまたお気の毒様である。