Saito Shigeta Award Vol.5
第5回斎藤茂太賞

第5回斎藤茂太賞授賞式開催

 一般社団法人日本旅行作家協会(会長/下重暁子・会員数195人)は、創立会長の故・斎藤茂太氏(作家・精神科医)の功績をたたえ、またその志を引き継ぐため、氏の生誕100年、没後10年にあたる2016年、旅にかかわる優れた著作を表彰する「斎藤茂太賞」を創設しました。
 第5回の今年は、2019年に出版された紀行・旅行記、旅に関するエッセイ及びノンフィクション作品を対象とし、会員による数次の選考を経て、去る2020年7月10日、下重暁子(作家)、椎名誠(作家)、大岡玲(作家)芦原伸(紀行作家・元SINRA編集長)、種村国夫(イラストレーター・エッセイスト)の5氏によって最終選考が行われ、若菜晃子著の『旅の断片』(アノニマ・スタジオ/KTC中央出版)が受賞作に選ばれました。
 コロナ禍の中、選考スケジュールが遅れ、授賞式の開催も危ぶまれましたが、関係者の努力が実り、10月23日に日本プレスセンター内のレストランアラスカで行われた授賞式には、審査員全員と斎藤家の皆さん、そして、日本旅行作家協会の会員40名以上が集まり、著者の若菜晃子さんを祝福しました。(写真:戸川覚)

斎藤茂太賞の正賞は賞状とクリスタルの盾、賞金30万円。今回も、サントリーホールディングス(株)、(株)ウッドワン、日進ホールディングス(株)、協和海外旅行(株)、(株)ワールド航空サービスに協賛いただきました。心より感謝いたします。

第5回斎藤茂太賞受賞作

旅の断片
若菜晃子:著(アノニマ・スタジオ/KYC中央出版)

著者の濃(こま)やかな視点による表現は、ある場所、ある時間の、ある風景をくっきりと浮かび上がらせ、読者自身の記憶のようにさえ感じさせる力を秘めています。「旅の夜」からはじまり、旅先はメキシコ、イギリス、キプロス島、インド、ロシアのサハリン、スリランカなど多種多様。自然、人、食べものや文学など、著者の多角的な興味や造詣の深さを感じる一冊。

第5回斎藤茂太賞最終候補作

『また旅。』岡本仁(京阪神エルマガジン社)
『ただいま、日本』乙武洋匡(扶桑社)
『旅がなければ死んでいた』坂田ミギー(ベストセラーズ)
『旅の断片』若菜晃子(アノニマ・スタジオ/KTC中央出版)

また、昨年に続き斎藤茂太賞受賞作以外の優れた作品を「第2回旅の良書」に選定、授賞式の最後に以下の9冊を発表しました。

選評

下重 暁子
作家
日本旅行作家協会会長

旅の意味を考えさせる本格的な旅行記

 候補作品が送られてくると、まずはパラパラとページをめくって大まかに印象をつかみ、そのあと熟読するのだが、今回最初に手に取った3冊はどうもピンとこなかった。ところが、事情があってたまたま遅れて届いた1冊に目を見張った。「いいのがあったじゃない!」。それが『旅の断片』だ。
 コロナ禍の中で山荘に引き籠もり、じっくり読み進めていくと、ますますこの作品に引き込まれた。外国へ行って、珍しいものを見ようというのではなく、人々の普通の暮らしに目を向け、それを落ち着きのある優しい文章で綴っている。
 たとえば、とある街角。おばあさんが毎日毎日花に水をやっている。ただそれだけの風景が、なんと愛おしく心にしみることか。かつて、宮城県気仙沼市から渡った島で、一日中ひたすら牡蠣の殻をむいている人々の姿に、心底感動したことを思い出した。地に足のついた暮らし、なんでもない日常がいかに尊いものであるか、旅のスケッチ風のエッセイが、そのことを改めて感じさせてくれた。(談)

椎名 誠
作家
日本旅行作家協会名誉会員

可憐で正直な紀行文。心地のいい上品な作品

 『旅の断片』は、思いがけないような涼しげな小品を並べたしゃれたお店のショーウインドウのような本だ。タイトルが表しているように、とても可憐で正直な旅の紀行文である。原稿枚数もそれぞれの話に合わせた適正な分量で、文章の奥に広がる出来事もそれぞれにさりげなく心地いい。旅のエッセイなのは間違いないが、それぞれ出会った出来事や風景やいろいろなものに触れた話が静かにつづられている。
 押しつけがましくないエピソードの数々は心に残るものが結構多い。例えば、遠い外国の辺境地で飛行機を待っている話がある。草原の中に滑走路が広がっていて、飛行場には必ずあるような、空港関係者や客などがいるはずの建物というものが一切ない。けれど明らかに飛行機を待っている人々がいて、そこにきちんと小型飛行機がやって来て着陸する。パイロットが出入口に立ってあいさつし、乗り込むわずかな数の乗客ひとりひとりにキャンデーを配っている。それだけの話なのだが、具体的な地名などにこだわらず、そういえば世界には時折このような空港があるなあと懐かしさに満ちて読み進む。
 また、足が4本しかないクワガタが玄関先に転がっている話がある。それを拾って本来の住処である木に戻そうとするのだが、すぐにはうまくいかない。でも間もなく落ち着く果実の木にとまることができた。これもまた遠い昔に自分も体験したような懐かしさに満ちている。
 この人の見つめてきた世界はとてつもなく広く、そして出会った出来事も思いがけないほど懐かしい。久しぶりに寝入る前などにちょうどいい風に吹かれるような、心地のいい上品な一冊だった。

大岡 玲
作家
東京経済大学教授

ありえたかもしれない「もうひとつの人生」を味わう

 旅は大好きである。しかし、だからといって旅行記の選考ができるかといえば、それはまったく別問題だ。「斎藤茂太」賞の選考委員を気軽にお引き受けしたが、候補作が届くまでにだんだん気が重くなっていた。しかしその気鬱は、若菜晃子さんの『旅の断片』を読みはじめると、みるみる晴れわたった。
 タイトル通り、本書は世界中のさまざまな場所を舞台にした短い文章が、断片のように並ぶ構成になっている。ひとつひとつの章が、さながら海辺で拾った透明な石のように、一瞬きらりと読み手の心を照らしてから、すっと光を消して静まる、そしてまた次の石が光りはじめる、という雰囲気で連なる。「特別な目的を持って行動する」のではなく、「名所旧跡を丹念に見て回る」のでもなく、ただ、その土地で「生きる人々と同じようにパンを買い」、「吹く風の音を聞く」ためだけに旅をする、という著者の姿勢に心から共感した。
 これは、「旅」をしながらその地の「暮らし」に身を差し入れる、という行為なのだが、もちろんそれは著者が書くように、ありえたかもしれない「もうひとつの人生」を味わうことでもある。可能性でしかなかった人生なのに、なぜかそこには切なさや懐かしさがあることを、著者は文章で読み手に教えてくれる。読んだ者は、ああ、私もいつかありえたかもしれない人生を探しに旅に出よう、という気持ちになる。見事な魔術だ。
 そして「断片」なので、頭からひと息で読み通さなくてもよいところが、またいい。大好きな菓子の詰め合わせを惜しみながらちびちび食べる子供のように、就寝前のひと時や仕事で煮詰まった合間などに、世界中のさまざまな場所をちょっとづつ気ままに旅する。この本は、そんな読み方がぴったりくる。

芦原 伸
紀行作家
元「SINRA」編集長
日本旅行作家協会専務理事

今回は、文学賞として作品の表現力が問われた

 坂田ミギー『旅がなければ死んでいた』は失恋が原因で世界へと飛び出した主人公(私)が、旅のなかで活力を得、ふたたび元気な人生を勝ち取る、というストーリーで、主人公のバイタリティーを十分に感じさせ、旅の実感がこもる作品だった。しかし、残念ながら文章に情感や思索が乏しく、賞を得るにはいささか物足らなかった。
 乙武洋匡『ただいま、日本』は、世の叱責を背負った筆者が、37ヵ国をめぐることにより、再生を図る宣言書のようだが、内容は各国の弱者環境や国情に関するレポート(私感)であり、残念ながら文芸には至っていない。この作品はむしろTV番組化してキャスターとしての乙武をクローズアップした方が成功しただろう。
 岡本仁『また旅。』は、あくまで「お買いもの本」であって、正統派の旅の本ではない。しかし、こうしたチェンジアップ的な志向も旅の文化の一面と捉えることは可能だ。作家の特異な感性が各章に散りばめられ、いわゆる「情報本」とはかけ離れた視線に、評者は諸処で共鳴した。ただ本の作りが、安易で、写真多用の意図が不明である。むしろ著者が選んだモノに写真は絞り、余韻をもたせた方が効果的だったのではないか、と悔やまれる。
 若菜晃子『旅の断片』は、そのタイトル通り、素直で、衒いがなく、著者その人の性格がしのばれるようで、好感がもてた。この作品に関しては他評者が多くを語っているので、重複は避けるが、評価したいのはその表現力だ。たとえばサハリンのチェーホフ山へのアプローチでは「ヤナギの大木があり、カラマツがあり、トリカブトが咲き、シジュウカラが鳴いている」と書かれ、目の前にその情景が広がるようである。また心象風景の描き方もよい。メキシコの半砂漠に生き延びるサボテンを眺め、「あのサボテンのように生きればいいのだ。何者かになろうと思うことが間違っているのだ」と内省を込めて語る言葉には訴求力があり、虚飾のない純な筆者の性格がしのばれる。
 今回は「文学賞」として、各作品の表現力が問われた結果であった。

種村 国夫
イラストレーター
クルーズ画伯
日本旅行作家協会常任理事

上品な詩情に独特な魅力。次作にも期待

 今年2~3月から世界中に蔓延したコロナ・パンデミックによって世界は一変!、特に旅行業界、航空業界、ホテル・旅館業界、各種交通機関、観光地等へのダメージは大きく、今年、東京オリンピックを予定して、インバウンド事業に期待が高まっていた日本にとっては、開催を1年先まで延期せざるを得ない、大きな変更を余儀なくされた。コロナ・パンデミックはその上、世界中の国交も閉鎖状況に追い込み、あれほど自由に世界中に行き来できていた旅行もピタリと途絶えて、あらゆる分野で自粛休業が蔓延することになってしまった。特に僕が得意分野にしていた、豪華客船による世界一周旅行は、ほとんどが催行不能となって、中には催行会社で倒産に追い込まれる事態も生じてしまった。
 こんな年に斎藤茂太賞という旅行文学賞を選出すべきかどうかの議論もあったが、逆にこんな年だからこそ、旅行分野の熱気だけは保っておかなければ!という意見もあって、斎藤茂太賞だけは通常通り選出することに決定したのだった。僕は候補作の中から岡本仁さんの『また旅。』と若菜晃子さんの『旅の断片』の2作品を選び出し、旅に行きたくても行けないコロナ・パンデミック時代に特化し、作品上で写真と共に楽しむ『また旅。』か、若菜晃子さんの確かに『旅の断片』ではあるが、文面から感じられる上品な詩情に独特な魅力を感じ、次作にも期待したくなった。5名の最終選考委員で揉み合わせをした結果、『また旅。』は雑誌の特集記事の集合体的であり、ガイドブック的度合いが強いとして見送られ、全員一致で『旅の断片』が受賞作に選ばれることとなった。

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