白川郷・五箇山の合掌造り集落

岐阜県大野郡・富山県南砺市 1995年に文化遺産として登録  

岡 哲文/文・写真

 JR新高岡駅で下車し、加越能交通の世界遺産バスに乗車して五箇山に向かう。市内を通り抜け、約3㎞の長い五箇山トンネルを抜け「相倉口」で下車する。道なりに歩いて行くと、「相倉屋」という合掌造りの土産物屋と大きな駐車場の背後に相倉合掌造り集落が広がる。現在23棟の合掌造り家屋があり、民宿やお土産屋を経営している。郷愁を誘うような、懐かしさを感じながら合掌造りの内部公開を行っている「相倉民俗館」と「相倉伝統産業館」に入る。昔の生活道具、和紙作りの道具、こきりこ節や麦屋節の衣装が展示してあり、また画像で五箇山の生活を紹介している、それを見ながら、かつての生活に思いをはせる。

 相倉口のバス停に戻り、荻町行のバスに乗ってしばらく行くと、大きな合掌造り民家「村上家」が目に入る。入り口の前のバス停「上梨」で下車してここに入館すると、囲炉裏の前で当主が昔の五箇山の生活、煙硝作りの歴史、更に実際にささらを用いてこきりこ節を実演してもらえる。2、3階には、かつて煙硝や和紙作りに使っていた道具の数々が展示してある。

 村上家を出て上梨のバス停に戻ってバスに乗り、菅沼で下車する。菅沼合掌造り集落には、約9棟の合掌造り集落がある。ゆっくり散策し、「五箇山民俗館」と「塩硝の館」を見る。両館とも、内部の写真撮影は禁止である。「五箇山民俗館」の最大の見ものは、かつて庄川を渡るのに実際に使われていたぶどうつるの籠の渡である。「塩硝の館」では、江戸時代に合掌造り民家の軒下で鉄砲の煙硝を作っており、形が塩に似ていることから「塩硝」の字をあてるようになったことや、詳しい製造方法が学べる。
 バスでそのまま一路白川郷を目指す。終点白川郷バスターミナルで下車して、「和田家」、「神田家」、「長瀬家」そして「明善寺庫裏」を見学する。ここ以外に合掌造りの内部公開を行っている場所がある。本通りからであい橋を経由して総合案内であいの館の前の横断歩道を渡った所に「白川郷合掌造り民家園」に全26棟の合掌造り民家が移築されている。民家の多くが今は廃村になった「加須良」(かずら)集落から移築されたもので、往時の加須良集落の映像も見ることができる。 
 都会の雑踏から離れて、独りでゆっくりと古人の生活に思いを馳せてみるのも、都会の生活に疲れた我々には必要ではないだろうか。
(写真は一部を除き、2015年撮影)

地底深く眠り続ける黄金の城 八重野充弘

 白川郷の地底に莫大な黄金を抱いたまま400年以上眠り続けている城があるのをご存じだろうか。その名は帰雲城。
 戦国時代の末の1585年11月29日深夜、現在の福井県南西を震源とする推定M8.1の大地震が起こった。北陸、東海、近畿の広い範囲が被災し、飛騨地方では、庄川の東にそびえる帰雲山が山頂から崩壊し、大量の土砂がおそるべき速さで山麓に押し寄せ、城一帯を瞬時に埋め尽くした。
 城は鉱山会社のような役割をもっていたらしく、足利氏の命でここに城を構えた内ヶ嶋氏が3代にわたって金銀山を開発し、城で製錬加工を行っていたのだが、富山城主・佐々成政が豊臣秀吉と対立したとき、3代目の氏理は成政側についた。成政は敗戦。ふつうなら内ヶ嶋氏も領地没収のところ、おとがめなし。その理由は、同氏が武将ではなく鉱山技術者だったからだろう。城があった場所は現在の保木脇のあたりか。中には鉱石から製錬途中のもの、出来上がった金塊まで、さまざまな形状の黄金があったのはまちがいない。その価値は時価数千億とも…。ただ、正確な位置はわからず、堆積した土砂の層は厚い。1973年ごろから断続的に調査が行われているが、ほとんど進展はなく、いまもそげ落ちた山肌が生々しい帰雲山は、黙して語らない。

庄川を挟んだ対岸の保木脇の台地に、碑と犠牲者を弔う観音像が建つ。背後に帰雲山がそげ落ちた山肌をさらしている。
(帰雲は「きうん」とも「かえりぐも」とも読む)

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