アドリア海東岸ダルマチア諸国と7つの世界遺産歴訪の旅

中野洋一/文・写真

クロアチア

 訪問した国々(首都)はバルカン半島北西部ダルマチア地方のアドリア海東岸諸国で、北からスロベニア(リュブリアーナ)、クロアチア(ザグレブ)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(サラエボ)、モンテネグロ(ボドゴリツァ)の4か国。世界遺産はクロアチア国が①プリトヴィツェ湖群国立公園、②シベニク市聖ヤコブ大聖堂、③トロギール港聖ロブロ大聖堂、④スプリット市ディオクレティアヌス宮殿、⑤ドゥブロブニク市街の5か所、及びモンテネグロ国のコトル旧市街、ボスニア・ヘルツェゴビナ国のモスタル市街を加えて合計7か所訪問した。滞在した2017年7月中旬7日間は、日中気温が摂氏38度にも達する酷暑の連続で、前月から続く世界的な異常気象ブロック高気圧のせいで、沿岸諸国は各所で森林火災に見舞われ、縦長のクロアチアを南下したバスの窓外に、何か所もの無残な焼け跡を目撃した。さらに、国境通過ごとにバスの中で長時間待機させられ、暑苦しさが倍加した旅だった。
 今回のクロアチア旅行が契機となって、「マルコ・ポーロ」と「コロンブス」という二大旅行家の繋がりを知ることになった。13世紀後半、ダルマチア沿岸は対岸のべネツィア国の領有下にあり、ベネツィアとジェノバの両国が周辺海域の覇権を争っていた。その混乱の最中に、東方への大旅行(往は陸路、復は海路)から帰国したベネツィア商人マルコ・ポーロ(1254~1323)は、べネツィア艦隊の一艦長として海戦に参戦。コルチュラ島(一説にマルコ・ポーロ生誕地)沖合での海戦に敗れて捕虜となった。ところが天の配剤か、収監されたジェノバの獄中(サン・ジョルジオ宮殿)で騎士道物語作家ルスケチルロの知遇を得て、彼の口述筆記によって『東方見聞録』(欧米版タイトル『世界の記述』)は世に出たのだ。未知の東洋世界を西洋に伝えた貴重な旅行記は、15世紀末にアメリカ大陸を発見したコロンブスの愛読書でもあった。その各ページに丹念に書き込みが付記されたラテン語版写本は、コロンブス博物館(セビリア)蔵書として現代に伝えられている。
 アドリア海沿岸世界遺産諸都市は、その形成の生い立ちが異なる。堅牢な城砦に囲まれた「ドゥブロブニク」は、べネツィア共和国と覇権を争った。だが戦乱の時代は去り、平穏なアドリア海に面した風光明媚の都市は、現代のリゾート地として観光のメッカとなった。クルージングに適した良港は大型豪華客船の碇泊地となっており、背後のスルジ山からの眺望は絶景であり、「アドリア海の真珠」とも称される。同じ沿岸都市の「シベニク」は小さな漁村から貿易港として発展、街のシンボルの聖ヤコブ大聖堂が世界遺産登録(1200年)。「トロギール」は紀元前のギリシャ人植民都市が繁栄して自治権獲得した古都で、中世そのままの旧市街が世界遺産登録(1997年)。「スプリット」は近隣都市ザロナの住人が異民族の侵入に遭って難民化し、ローマ帝国ディオクレティアヌス帝(キリスト教迫害で有名)が西暦303年建造開始した宮殿(1979年世界遺産)周辺に移住したのが始まり。その後自治都市として繁栄し、クロアチア第2の都市に発展した。近隣のコトル旧市街(モンテネグロ)もまた歴史地域として世界遺産登録された(1979年)。

スロベニア

リュブリアーナは、ハプスブルク家による支配時代がおよそ500年続いたスロベニアの首都であり、同国屈指の保養地だ。宿泊したブレッド湖の水面にはアルプス山脈に繋がる連山(ユリアン・アルプスと称す)が映し出されていた。その湖に浮かぶ孤島へ手漕ぎのボートで運ばれた一行は、上陸して聖マリア教会の鐘を衝いた。旧ユーゴスラビア大統領チトーがこよなく愛した名所だそうだ。スロベニアは山岳スポーツが盛んで、スキージャンプの強国である。訓練施設も充実しており、世界の最年長ジャンパー葛西選手が合宿に使った建物はよく保存されている。
 夕食後のひと時、ブレッド湖畔を散策していると、野外レストランのテントの下で大勢の観光客がプロの楽団の演奏と踊りを楽しんでいた。空席のテーブルを見つけて着座すると、ライトアップされたブレッド城が湖上にぽっかりと浮かぶ幻想的な姿が見えた。自由時間の多い旅は意外な幸運に出くわすことがある。
 同国は石灰岩の大地が広がっており、国内に数多くの鍾乳洞が存在する。全長27㎞の欧州最大(世界第3位)のポストイナ鍾乳洞を訪れると、快速連結トロッコが洞窟内部へと運んでくれた。ディズニーランドのカリビアン・パイレーツ気分になる。洞内の気温は10℃に保たれており、炎暑の旅行中、涼感を味わうことができるスポットだった。

 余談になるが、市街地の「三本橋」近辺で大胆な女スリに狙われる破目に陥った。犯行の瞬間を目撃したツアー同行者が指を差して証言してくれたので、観念して道路に座り込んだ女は、「ここに落ちてた。これでいいでしょ」と、盗んだ財布を拾い上げた風を装って差し出した。こちらが中身の安全を確かめたと見るや否や、さっと露地に消えていった。当方は胸を撫で下ろすと同時に、背筋に冷や汗が流れた。

ボスニア・ヘルツェゴビナ

 モスタルは同国南部地方の中心都市で、ネレトヴァ川に架かるアーチ状の石橋「スタリ・モスト」を中心とした地区一帯が世界遺産に登録された(2005年)。石橋を渡った先の沿道にはオスマン朝時代のトルコ人伝統家屋が並び、各種の土産品販売を行っている。丸石が敷き詰められた一風変わった歩道はトルコ式だろうか、足裏が痛む。川辺に降りて橋を見上げていると、青年が橋上から川面に飛び込んだ。この落下儀式は1664年から続く伝統行事だそうだ。
 ツアーの最後に訪れたサラエボは、1984年冬季オリンピック開催都市として著名だが、第一次世界大戦の引き金となった一発の銃声のほうが有名かもしれない。1914年、当時ボスニアを統治していたオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、ラテン橋通りでセビリア人青年に狙撃されて落命したのだ。事件発生時の額入り写真が川沿いのビルに掲示されている。ラテン橋を渡りながら、高校教科書知識でしかなかった歴史的現場に実際に足を踏み入れることになろうとは、予想だにしない出来事だった。

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