石見銀山遺跡とその文化的景観

島根県大田市 2007年に文化遺産として登録  

八重野充弘/文・写真

 私が石見銀山跡を訪ねたのは、1993年8月のこと。CBC(中日放送)が制作する紀行番組「小さな旅と美術館」のロケだった。当時、上智大学の学生だった、フランス人の父親と日本人の母親をもつフローレンス・容子・シュドルさんが、日本の文化と人々との出会いを求めて日本各地を旅し、現地にある美術館を紹介するもので、毎週土曜日の午前7時半から30分間放送され、2桁の視聴率を獲得する人気番組となっていた。美術館といってもかなりゆるやかな設定だったようで、博物館や各種展示施設も取材の対象となっていた。私が案内役を務めたその回のタイトルは「一攫千金!? 銀山浪漫の旅 ~温泉津・大森・仁摩~」。

 島根県大田市大森町にある石見銀山の名は、そのころある雑誌に「日本の鉱山史」を連載していたからもちろん知っていたが、訪ねるのは初めてだった。鉱脈は鎌倉時代の末に、周防の守護だった大内氏によって発見されたというが、本格的な採掘を始めたのは博多商人の神谷寿貞で、戦国時代に大内、尼子、毛利の3氏が争奪戦をくり広げたことはよく知られている。結局、銀山を完全支配することになった毛利氏が、中国地方の覇者となり、豊臣秀吉に服属するまでの40年間に採掘した銀は、推定約1500トンに上るという。また、16世紀後半から17世紀前半までの全盛期には、摂津多田、但馬生野とともに、日本の銀の産出量は世界の3分の1に達していて、そのうちのかなりの部分が石見から出ていたと思われる。当時ヨーロッパで作られたアジアの地図に、石見にあたる場所に「銀鉱山」と書かれていたというから、その隆盛のほどがわかる。
 大正末期の1923年に休山、太平洋戦争中の1943年に完全閉山になるまで、長い間日本の経済を支えてきた鉱山の跡は、現在は観光地になっていて、ロケのときには代表的な間歩(坑道)跡である「龍源寺間歩」に入った。それ以前に、佐渡や伊豆の土肥で金山跡を見学したことはあったが、ここも無駄なくきれいに掘り抜かれていて、昔の技術の高さに感心したものである。
 ただ、2007年にここが世界遺産に登録されたことを知ったとき、最初は正直な気持ち「あんな地味なところが?」と、疑問に思った。ところが、ユネスコの委員会の評価が意外なところにあったことを知り納得した。石見銀山遺跡は、環境に配慮し自然と共生した鉱山運営を行っていた点が認められたのだ。
 そういえば、外国の鉱山は、ほとんどが露天掘りである。大地をえぐり取った跡は不毛の地となる。それに対し、日本の金山や銀山は鎖と呼ばれる鉱脈をたどって、ていねいに坑道を掘っていく。ほとんどが横穴で、閉山後数年たてば、坑道がどこにあったのかわからないくらいになる。また、鉱山では製錬に大量の燃料を必要とし、薪炭用の木材が伐採されるが、ここでは切った木の分はきちんと植林をし、環境への負荷の少ない森林管理をしていた。それが登録の決め手になったという。日本各地の鉱山遺跡を見てきて普通に思っていたことが、実はとても大切だったことに気づかされたのだった。(写真はすべて1993年撮影)

次の世界遺産候補?

全国には歴史上重要な役割を果たしてきた金銀銅山の跡が数多く残され、観光施設になっているところも多い。本文中の佐渡、土肥のほかにも、串木野(鹿児島県)、鯛生(大分県)、別子(愛媛県)、生野(兵庫県)、鳴海(新潟県)などが知られる。
 ところが、私たちが2009年に群馬県片品村の山中で発見した金山の跡は、まだ未公開で地元の人もわずかしか知らない。戦国時代に甲斐の武田氏が発見し、江戸時代の半ばまで採掘が行われていた金井沢金山は、多くの文献は残されていたが、長い間その所在が不明だった。私たちは1992年に調査に着手、17年かけてふさがれていた入り口を発見、坑道内に入ることに成功した。きちんと調査を終えたあとには一般公開するつもりである。

地元に住んでいた老人(故人)の証言や、現場に残る石碑、石臼の破片などから、この斜面に入り口があると信じた。崩れ落ちる土砂を木組みで止め、苦労の末、2009年9月、ようやく坑道の入り口を探り当てた。
 入り口からまっすぐ60m続く坑道内にはどこにも崩壊の跡はなく、400年以上前から掘っていたとは信じられないほど美しい。公開されている金山跡の坑道と比較してもひけはとらない。いずれ史跡の仲間入りをすることだろう。

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