三重津海軍所跡

佐賀県佐賀市 2015年に文化遺産として登録  

藤田 邦彦/文・写真

 三重津海軍所跡は2015年7月に日本の19番目の世界遺産として登録された“明治日本の産業革命遺産”を構成する23か所の一つで、有明海の最奥の広大な平坦地を流れる早津江川河口付近にある。施設は既存の佐野常民記念館に併設されていて、佐賀市中心部からのアクセスは悪く探しにくい。公共交通機関はないに等しく、我々はレンタカーで市庁舎から1時間を要した。
 記念館の2階から土手に出ると、河川敷の海軍所跡が一望できる。有明湾の遠方には雲仙岳が望めた。施設のガイドはしっかりしたものが出来ていたが、運用が稚拙だった。下流から修理所、長さ60m幅20mの石とレンガで出来たドック、稽古場、船屋の4地区が数百m――haの規模だった。遺構を良好な状態を保つため埋め戻された。

 この施設は、御船手稽古所(おふねてげいこしょ)として佐賀藩の船を管理保管するために1858年に設立された。きっかけは 1808年に長崎港で起きた「フェートン号」事件、ペリー来航(1853年)である。藩主鍋島閑叟は佐賀の妖怪といわれた人物で、長崎港の防備を固めるため幕府に先駆け自力で長崎港に砲台を設置しただけでなく、優秀な藩士を長崎に送り研究させた、大隈重信は冶金学を学んでいたという。そして、溶鉱炉、製鉄所をつくり,さらに秘密の研究所で銃の製造をはじめた。幕府は幕府、佐賀は佐賀という感覚だった。刀剣、甲冑、火縄銃などはつくらず、アームストロング砲などという当時世界最先端の銃をつくった。費用は独自の出島貿易から捻出した。オランダ、イギリスから軍艦も購入した。そのうちの「電流丸」(1856年オランダ製、蒸気機関、全長49.1m)を手本に佐賀藩製の「凌風丸」(蒸気機関、木製、外輪船全長18.2m)を1865年に完成させた。これより先に薩摩藩が1855年に蒸気機関艦船を完成させているが、蒸気圧が上がらず実用にならなかった。「凌風丸」は1870年に座礁するまで実用に供されその後外国に買い取られたという。

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